子どもには同じ話しををせがむ意味がある
子どもに「これ読んで」と本を持って来られたとき、
「え~、また~」と同じ本を何度も読まされるとき
ありませんか?
ひょっとして、図書館や本屋さんでも同じ本を見つけると
「これほしい」と言われたりしたことありませんか?
このような子どもの行いに「?」と思う大人の皆さん、
子どもの心を失っているといってもいいと思いますよ
(もちろん、大人の社会論理のなかで暮らしていると
当然、子ども心は失われているなかに私たちは暮らしているのですが…)
子どもは物語を食べる、と表現したのは、たしか福音館書店の松居直氏だったと
記憶するが、たしかに、子どもの読書は、その血となり肉となると言われることが多い
そしてその子どもの内的発達を支えるものに昔話が有効と『昔話の魔力』(ベッテルハイム)
には記述されているのだが…
p,83に、
「子どもの場合は、無意識が前面に出てくるたびに、
全パーソナリティーがたちまち圧倒されてしまう
子どもの自我は、混沌とした無意識の内容にぶつかると、
それを認識して強まるどころか、かえって圧倒され、弱くなってしまう。
しかし、なんとかつかんでいるために、
その過程を外面化しなければならない。
無意識の内容と自分を引き離して、距たりをおき、
なにか自分と別にあるものと考えなければ、どうにも取り扱えないのだ。
これを支配することなど、とてもできない」
長い引用になってしましましたが、要は子どもは経験が少ないため、
その無意識の領域が、ユングでいう個人的無意識の世界というよりは
集合的無意識のなかで、自分でもわけのわからない世界にいるといってもよくて、
それを、現実の社会と成長とにすり合わせるためには、
昔話のような、集合的無意識を扱っているような「物語」が必要ということなのでしょう
そして、それを自分のものにするために
「今の自分が課題としている部分をその物語必要としていると感じると」
なんども「よんで~、よんで~、」となるというのです。
p88
「私の知っているある両親は、
子どものが昔話を聞いて「そのお話しすきだ」といったので、
もっと喜ばせようとして、もう一つの昔話を聞かせ始めた。
しかし、子どもがいいたかったのは、その昔話の中に
自分にとって大切な何かが含まれているという、
まだぼんやりとした感じ
だったのではないだろうか
そのなにかは、同じ話を繰り返し聞いて、
はっきりつかまえる時間が子どもに与えられないと、
どこかにいってしまうのだ。
子どもの考えが熟さないうちに、
別の昔話に関心を向けさせてしまうと、
はじめの昔話の与えた効果が台無しになりかねない」
子どもの心は、大人の常識的枠組みでは
はるかに広いところで、物語を味わっている
たとえば、私たちでも、
今の自分に必要としている「歌」に出会ったとすると、
私たちはそのメロディーと歌詞を自分のものにしようと
なんども聴くことをしないだろうか
求めることは必ずしも同じではないかもしれないが、
子どものがなんども同じ本をせがむのは
同じようなことのようにも思えます。
またまた小難しいことを書いてしまいましたが…(-_-;)
また、具体的に、子どもの心は昔話でどんなふうに動いているか、
この本を中心に書いていければと思っています
ユング心理学は人間の深層心理に「昔話」に注目していました
ベッテルハイムのこの本は古いですが、
内容はいまでこそ読むべき本ではないかと考えています。
その考え方を、日本流の心理学や昔話にあてはめ
広めた方は、河合隼雄さんです
脈々とつながる昔話には、
人間の心理の集約的なことが詰め込まれていることがわかりますね